3.金剛智 金剛頂経を中国へ伝える

金剛智は、南インドマラヤコクの婆羅門の家に生まれ、父に懇願して仏道に入ることを求め、十歳のときナーランダー寺の寂静智を師として出家した。

 小乗と大乗の二大学派の教理を身につけた金剛智三蔵は、三十一歳ではじめて南インドに赴いて、龍智に七年の間承仕供養して、『金剛頂瑜伽経』など密経の法燈を伝授され、阿闍梨耶になった。また呪法にたくみで、観想すれば金剛サッタがつねに眼前に出現したという。

 

 師の元に観自在菩薩が現われて、次のように告げた。

 「大唐国に行って文殊師利菩薩を礼拝するがよい。

 そこで仏法を弘め、人びとを導きなさい。」と。

 師は、スマトラを経て南シナ海に出たときに大嵐にあい、金剛智の船だけがやと広州の港に到着できたという。また、この嵐で携えていた『金剛頂経』の梵本を海に投げ込まれたという伝説も伝えられてる。

 玄宗皇帝の開元八年(七二〇)、金剛智三蔵は東都洛陽に入り、皇帝に入国の事情を奏上した。 

 沙門一行も密経の受学を願って金剛智三蔵のもとに入門し、熱心に質問した。

三蔵は『金剛頂瑜伽略出念誦経』四巻、『金剛頂瑜伽修習毘盧遮那三摩地法』などを翻訳した。

  このような伝説が残っている。

 幻宗皇帝に一人の愛する娘があった。ある日、急病にかかり死去した。皇帝は金剛智三蔵を宮廷に招き、「私の愛する娘が急死した。人間の命に限りがあることは知っているが、それにしても突然の死であり、若死であきらめきれない。和上の法力で蘇生させることはできまいか」と懇望した。

 和上は二人の乳母と二人の童女を呼び、浄らかな衣を着せ、不可思議な力で呪縛したところ、四人は地に伏して気絶した。侍者にえんま王宛の文書を作らせ、乳母と童女ら四人の傍で朗読させた。すると地に伏す四人が起き上がって坐った。和上は、「この文書を暗記して忘れるな」といい、四人は、「覚えました」と答えた。復唱させたところ、一字も間違えなかった。そこで和上は、「お前たちはただちにえんま王のところへ行き、この文書をよみ、皇帝の娘をこの世につれ戻して来なさい」と命じた。金剛智三蔵のことばが終ると四人はともに死んだ。やがて、その日の午前八時から翌日の午後八時ごろまでに、四人の乳母、童女と皇帝の娘は、揃って蘇生した。そして皇帝の娘は、「和上の文書のおかげで、私はえんま王に許されて蘇ってきましたが、しかしいつまでも生きていることはできませんし、この国にとどまることもできません。三日たったら、またあの世へ帰ります」と、語ったと言う。皇帝と娘は再び互いにあい見ることができ、さらに娘のことばを聞いた皇帝は一層深く嘆息し、かつ和上の法力に敬服したのであった。

 これは大広福寺の南の中門の西のほとりに建つ、和上のための石碑に刻まれているところである。

善無畏三蔵  大日教をインドから中国に伝えた。

 中インドのマガダ国の王であったが、王位を捨てて仏道に入り、龍智菩薩の弟子で、金剛智三蔵とは同門の間柄である。やがて達摩掬多阿闍梨についた。

 善無畏は、陸路にて中国へ向った。ガンダーラの国王が『大日経』の念誦法を尋ねた時に、善無畏は金粟王の建てた塔のそばで祈ったところ、空中に文字が現れたという。

 開元四年、多くの梵語経典とともに長安に到着した。当時、玄宗皇帝は夢に高僧に会い、宮殿の壁に画かせていたが、その姿が善無畏そっくりであったのに驚き、玄宗の厚い帰依を受けた。

 

虚空蔵求聞持法』を翻訳

 善無畏は、西明寺の塔頭菩提院において、『虚空蔵求聞持法』一巻を翻訳したが、これは入唐していた大安寺の道寺によってすぐさま日本に請来された。これは、奈良時代から広く実修され、若き日の弘法大師もこの法を修行したことは有名である。

 善無畏の将来した梵本はすべて朝廷に献上させられ、みずから翻訳することができなくなりました。その後『大日経』の梵本を手に入れ、翻訳に着手した。

 善無畏は、皇帝の行幸に随従して洛陽に入り、大福先寺に住した。弟子の沙門一行と(密経を伝えるべく)『大日経』一部七巻、『蘇婆呼童子経』三巻、『蘇悉地羯羅経』三巻を翻訳した。

 

一行禅師 

善無畏三蔵に従って『大日経』七巻の翻訳に従事

 一行禅師は金剛智三蔵に師事して、陀羅尼や印契の伝授を受け、伝法灌頂の壇に入って、阿闍梨位を授かり、その後、善無畏三蔵に従って『大日経』七巻の翻訳に従事した。

 『金剛頂経』系の密経を伝えた金剛智三蔵の弟子でもあり、二人からの密経を相承した。

  

天文暦数の専門家として有名『開元大エン暦』を著す。

一行は天文暦数の専門家として有名であり、易学・数学にすぐれていました。晩年には玄宗皇帝の勅命によって、『開元大エン暦』を著している。

 やがて一行の名声が上がり、皇帝が一行に会った時、その記憶力に驚いてまさに聖人であると感嘆したと伝えられる。一行は金剛智の下でこ金剛頂教を学び、灌頂を受けたと思われている。

 また、一行は善無畏の梵本の探索を助け、華厳寺で『大日経』の梵本を発見します。開元十二年から洛陽で始めた翻訳に従い、筆受(筆記者)の役を勤め、併せて『大日経』の講義を受けて『大日経疏』二十巻を著した。

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