不空三蔵

 不空三蔵和上は南インドの出身で、大広智不空金剛と号した。

 三蔵は、早く両親と死別し、幼い時から出家の志があり、剃髪して袈裟を身につけていたという。十四歳の折、はじめて闍婆国において大弘教金剛智三蔵にめぐりあって、弟子となった」。

 金剛智三蔵は弟子となった不空に、ためしに『悉曇章』を教え、梵語経典を読ませたところ、一度聞いただけで音韻を間違えることがなかった。そこで得度の壇を設けて、

  一、誓って正法(正しい真理の教え)を捨てない。

  一、誓って菩提を求める心を離さない。

  一、誓って正法を慳しまない。

  一、誓って人びとをそこなわない。

 という、発菩提心戒を授けて、十五歳で正式に出家を許した。

 数年後、金剛智三蔵と不空三蔵の師弟は、危険な南シナ海に船出し、荒波に耐えて航海した。

 その後、密教を学びたいと金剛智三蔵に申し出たが、師はなかなか許可しなかった。

 ところがある夜、金剛智三蔵は、仏・菩薩の像が大挙して不空に従って東行する夢を見て、不空に密教を授けよとの仏の知らせであるとさとり、手に印契を結び、口に真言を誦え、心は三摩地に住する三密修行の法を授け、五智すなわち金剛界系密教の奥義を教えた」。

 

 不空は、開元二十九年(七四一)に金剛智が示寂するとすぐに、その遺言により『金剛頂経』の完本を求めてインドへ旅立った。

 勅命により『金剛頂経』ならびに『大日経』等の密経経典を請求するために、南インドの龍智阿闍梨のもとに派遣され、それらの両部にわたる伝法灌頂すなわち五部灌頂を伝授された。

 玄宗皇帝は、帰国した不空三蔵を早速宮廷に招き、宮中の道場に大壇を設け、灌頂の壇に入った。

 七五五年、安録山が兵を挙げて洛陽を支配すると、不空は勅命により西京長安に帰り、大興善寺に住して灌頂の壇を築き、調伏の修法を行なった。

 そして反乱軍を鎮圧し帝都が回復する日を予言した。至徳二年十月二十三日になって、予言のとおり平定し、不空は翌二十四日、戦勝の賀表をもって参内した。 

 

恵果阿闍梨

 第七代の祖師は、法の名を恵果阿闍梨という。俗姓は馬氏、首都(長安)の郊外昭応というところに生まれ、大興善寺の故大広智不空三蔵について密教を伝え受けて弟子となった。

 恵果和尚は七、八歳のとき、初めて青龍寺の曇貞和尚に伴われて大興善寺の不空三蔵に会った。

 三蔵は、恵果を一目見るや「この子供は立派な密教の阿闍梨となる器量をもっている」と、しきりに讃嘆し、恵果に、「お前は将来、密教を興隆する人物だ」と告げ、父母のようにいつくしんで、恵果を教育した。

 不空は三十余年の長きにわたって灌頂の壇を開き、入壇した弟子の数は多い。しかし修行が成満して金剛界の伝法灌頂を受け阿闍梨位についたものは八人だった。 

 恵果和尚は、唐の代宗・徳宗・順宗から尊崇され、三朝の国師と称される。

 

 弘法大師・空海は、日本に真言密教を伝えた、第八の祖と言われる。

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