大乗仏教の起こり

阿羅漢の教え (小乗仏教)

 ブッダの死後、伝統的な仏教が上座部として自己の悟り(自利行)を目指し、お釈迦様の説かれた言葉だけを僧院で研究し、理論的研究が進みました。伝統的な仏教は、お釈迦様の説かれた言葉を僧院で研究し、自らが悟る (阿羅漢になる) ことを目指した。

 しかし、阿羅漢は、人々の救いを忘れがちでした。

 その為に、すべての人を救済することを目的とし、実践倫理を重視する仏教が生まれました。彼等は、自分が悟りを得る(自利行)だけでなく、人々の救い(利他行)をも行うべきだと主張しました。人間の理想を人を救済することとし、その目標たる菩提を得んと努力するこれらの人をボウディサットバと呼んだ

 「俗人でも慈悲を行じ、布施をなせば、解脱を得ることができる。」という大乗仏教の教えの起こりです。

 

 唯識の教え= 大乗仏教 

 菩薩は、心のありかたの観察にひたすら意をそそぐ。菩薩は、心のみが真実であると悟る。 心に映ったさまざまな映像は虚妄であると悟る。「唯識 」と言う見方をされる。(この世にはただ認識をすることのできる主体だけが存在するという考え方) そしてことばも文字も離れた境地に、平穏無事の風をあおぐ。

 「般若経」「般若心経」

 実体を否定する。物質には実体が無いが、実体が無いからこそ物質でありうる。空の教えを悟っている菩薩の心は、欲に迷うこともなく、自由自在に、自利・利他の行為を成すことができる。

 空の教えを悟っている菩薩の心は、欲に迷うこともなく、自由自在となり、自利・利他の行為を心のままに成すことができるのです。

 

 この澄みきった水のような瞑想に入ったとき、心の認識する対象(境)は、悟りそのものであり、悟りの智恵だけが認識の対象となります。

般若の知恵により、人々の救済の為、人々が実践できると教える。菩薩の心は、虚空と同じであり、ことばも文字も離れた、真理の世界に安らいでいます。

自分の心は清らかであり、心は外にもなく、内にもなく、その中間にもない。心は欲の世界のものでもなく物の世界のものでもなく精神世界のものでもない。」ことがわかる。

「心は眼・耳・鼻・身・意の世界にもなく、見るものでもなく、顕現するものでもない。心は虚空と同じであり思慮や思慮のないことを離れたものである。自分の心そのままが、真実世界の心と同じである。それは、そのまま悟りと同じ。心と虚空と菩提とは一つのものである。慈悲を根本として、他の者を救う手段(方便)を満足する。

 

 「華厳経」

 仏陀が、成道の後三七日間の間に三昧によって得た内観。世界は、真理そのものであるビルシャナ仏の顕現にすぎず、すべての存在は重々無尽の縁起であり、唯これ一心の作とする。

 華厳経には、海印という精神統一に入り、法の性質が互いに溶け合っていることを悟る。      一人の修業者の心が大なる仏の心に等しいことを知る。「一と多が互いに融合している。」 一人一人の心が、仏と何も変わらず、同一のものであると悟る。一つ一つの心が互いに溶け合っている。初めて悟りを求める心を起こした瞬間に悟りの世界にはいる。という華厳三昧の世界である。

 

 「法華経」

 「白蓮花のような『法華経』の教えによる精神統一」という瞑想にはいって、

人びとが本来もっている徳性は汚れに染まらないと観想し、全ての人の心が清浄であることを知る。止と観の観想を行なう。(この止観は、澄みきった水そのものと事物を映し出す水のはたらきとの関係のようなものである)静かであってよく照らし、照らしていて常に静かである。

 この時、心の認識する対象(境)は、悟り(心)であり、悟りの智恵が認識の対象であることを知る。

 声聞(僧院を中心とした出家者の集団)・縁覚(僧院主義を否定して、原始的な遊行生活を維持する修行者たち)・菩薩(大乗仏教)らを仏乗の一つにまとめる。

釈迦は久遠の昔より成仏していたと説く。常住不滅の法身である。「涅槃教」にも説かれる。

久遠実成の仏であり、人々が渇望するなら、衆生救済のために応身としてこの世に姿を現ずる。十方に遍在する法身を示す。

菩薩の慈悲行(利他行)によって、多くの人々を救済する。

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